月例行事
お経日 - おきょうび -
妙縁寺では、毎月1日の、午前10時と午後7時に、「御経日(おきょうび)」と称し、これまでに願い出られた「永代回向(えいたい・えこう)」の各精霊(かく・しょうりょう)とご先祖、また願い出のあった各精霊とご先祖の「お塔婆(とうば)供養」を行なっています。
ある本に、
「先祖の血 みんな集めて 子が産まれ」 と書いてありました。たしかに、父親と母親がいて子供が生まれますが、その父と母は祖父母がいたから生まれ、祖父母は曾祖父母が、さらに曾祖父母は高祖父母が存在したから生まれることができたのです。そのように際限なく続いた親がいて、つまり、永(なが)いながい「生命のつながり」があって、初めて今の自分が生まれてきたのです。
しかも、いつの時代の親たちも、筆舌に尽くしがたい「子育て」の労苦を重ねてきました。子の世話は、昼夜を問わない、まさに「戦い」です。授乳、排泄物の処理、発熱などへの対処、寒暖にあわせた衣類の配慮など、数え上げたらきりがありません。そのうえ、それから十数年をかけて人間としてしつけ、周囲との接し方、世間的な常識など、社会に適応できるようになるまで面倒を見続けるのです。こうした「子育て」のバトンタッチが、想像を絶するほどの世代にわたって確実に行われてきたからこそ、今の自分の存在がある、これも事実です。
このように考えただけでも、ご先祖や両親には〈感謝せずにはいられない〉というのが、人間として懐(いだ)くごく自然な感情でしょう。ただし、そこで忘れてはならないのは、その感謝の気持ちを行動に現してこそ、真に「人間らしい、人間になれる」ということです。
そもそも、人間に生まれれば、誰もが人間として生きることができる、というものではありません。だからこそ、世間でも「恩知らずは、人間ではない」などといわれるのです。もとより、日蓮大聖人様は、
「世の中には、恩という大切なものがある。これを知っている者を人間と言い、知らない者を畜生と言うのである」〔趣意 聖愚問答抄399〕 と仰せられています。
やはり、亡くなった父母や先祖のための追善供養は、積極的に行うように心がけるべきです。
一日参 - ついたちまいり -
今の自分、そして将来の自分、それを真剣に考え、本物の幸せを願う人は、仏法で説く原因と結果にもとづいて生活することです。因果の法にもとづいて行動するならば、必ず有意義で価値のある日々をおくることができ、根のある草木のごとく揺るぎがない人生となります。一方、単なる世間的常識や自身の狭い知識・わずかな体験による生活は、根のない草のように、どこへ流れていくか判らない結果となります。
このことからも、月の一番最初の日、菩提寺の御本尊様に、
「今月〇日の試験、何としても合格させてください」
「〇週間後の契約、完璧な準備ができますように」
などと祈る、この行為にはきわめて大きな意義と功徳があります。つまり、自分自身が〈何としても〉〈絶対に〉との気持ちをいっそう堅固にすることができ、さらに「祈りとして叶わざるなし」との御本尊様の功徳力によって、すべてが正しい形で進んでいくからです。
試験で高い点数をとるためには、そのための勉強が欠かせません。仕事上の重要な成約に 、事前の下準備をしないで臨む人はいません。やはり、試験のために真剣な勉強に励むことです。契約のために周到な準備をすることです。また、それを貫くための〈何としても、高得点をとる〉〈必ず、成約する〉との気概、これはまさに必須です。そしてそのうえで、さらに因果が完璧に整った法そのものである御本尊様に祈る、これでこそ文字どおり「自分にできる、すべてを為し終えた」ということになります。
中国の天台大師も、
「衆生に此の機有って仏を感ずる…仏機を承けて而も応ず」〔御義口伝1728〕
と述べています。私たちに〈何としても〉〈ぜひ〉というひたむきな姿勢と、強い信心、それがあって初めて、御本尊様、大聖人様が必ず応じてくださる、ということです。
しかも、大聖人様が顕された御本尊様には、
「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経を修行する者の祈りのかなわないことは絶対にない」〔趣意 祈祷抄630〕
という絶大なお力がそなわっています。
広布唱題会 - こうふしょうだいかい -
妙縁寺で毎月第1日曜日、午前9時から行う「広布唱題会」は、広宣流布をご祈念する法会です。
この唱題よって、心を一つにして「南無妙法蓮華経を弘めて人を救う、そのために自分には何ができるのか」をしっかり見定め、またそれを実際に行うことができるように願い、祈ります。
私たちは、身体と心によって、日々の生活を営んでいます。その身心がともに壮健になるためには、妙法を正しく信じ、仏道に邁進することが何よりも大切です。
もともと日常生活は、身体と心とによるのですが、なかでも、仏法において「身は心の従」と示されるように、結局、その時々の身体のさまざまな状態は、心が元になって起こってくるものです。たとえば罪障によって、心にいろいろな誤りが生じている場合には、身体にも必ずその影響が及んできます。そこで、御本尊様をしっかり拝して南無妙法蓮華経と唱える、この繰り返しが、あらゆる病を起こす状況から自分を必ず救ってくださるのです。
だからこそ、日蓮大聖人様は、
「法華経は身と心のすべての病(やまい)の究極の薬である」〔趣意 太田左衛門尉殿御返事1222〕
と仰せられているのです。
また、世間には、多様な謗法の罪障、あるいは自分がつくった種々の悪因による心の病や身体の病にかかって、苦悩に喘いでいる人がたくさんいます。これを治すためには、自身が御本尊様を信じてみずからお題目を唱え、究極の薬を服用することです、この尊い行為によって、必ず、
「毒薬変じて薬となり、悪変じて善となる」〔趣意 内房女房御返事1492〕
という不思議な功徳をいただくことができます。
したがって、まだお題目を唱えることを知らない人に対して、究極の薬があることを教えてあげる、南無妙法蓮華経の大良薬を服させてあげる、その尊い行動が折伏です。
現在、世界中におよそ七十七億の人が生存していますが、その人々を救っていく一番元になっているのが今、南無妙法蓮華経を信仰している私たちです。法華講員です。ならばこそ、まず菩提寺である妙縁寺に集い、共ども真剣に唱題し、何としても、折伏という尊い行動にチャレンジしてみましょう。
また、その実践によって、それぞれの立場における職業等も正しく進み、好転し、しかるべき結果が出てくるのです。
御報恩御講 - ごほうおんおこう -
妙縁寺では、毎月第2日曜日、午前10時から「御報恩御講」を行っています。またその前日の、午後7時からは「御逮夜御講」を奉修しています。
日蓮正宗の寺院は、法華経に「当に道場に詣して」〔該書605〕と説かれているように、檀信徒お一人おひとりが、自分と人々の幸せを願って仏道修行に励むために参詣すべき大切な道場です。したがって信心の基本中の基本が、自分の菩提寺に参詣すること、と言っても過言ではありません。
そもそも、仕事で近くを通ったので、用事で近くまで来たのでなどの理由で、わずかな時間お参りしただけでも、妙楽大師が、
「正しい御本尊様には、縁するだけで、多くの功徳を頂戴できる」〔取意 学林止会上-175〕
と述べているように、必ず厳然たる功徳がそなわります。しかも、大聖人様が、
「小善も法華経に帰すれば大善と成る」〔取意 御講聞書1836〕 と仰せられているように、私たちの小さな善い行いでも、より大きな、そして尊い功徳となるという不思議な御本尊様です。ならば当然、突然思い立ったのではなく、心がけて菩提寺に参詣する功徳は必ず大きな果報となり、すばらしい現証となって、身の上にまちがいなく現れてきます。
しかも御講は、仏宝 である 日蓮大聖人様、法宝 である本門戒壇の大御本尊様、僧宝である 第二祖日興上人を随一とする御歴代上人に対し、私たちが僧俗一同が真心からご報恩の志を捧げるとともに、今後の仏道増進を誓うための法要です。
当然、この御講への参詣は、安産のご祈念願いや法事・お塔婆供養などの言わば自分のための寺院参詣とは大きく異なり、ひとえに三宝尊へのご報恩のためです。御本尊様、大聖人のためのご参詣です。このちがいが、実はたいへん大きいのです。それは、大聖人様の、
「常に、仏と法と僧という三宝の恩を受けていながら、その恩にまったく報いようとしないのでは、いったいどうして本物の幸せが得られるというのか」〔趣意 報恩抄268〕 との仰せからも明白です。
ぜひ、僧侶とご信徒が一体となって、三宝尊に心からご報恩申し上げましょう。
年中行事
元旦勤行 - がんたんごんぎょう -
新しい年を迎えると、ほとんどの人が「今年こそ、こうしよう」「自分はああしよう」と、何らかの誓いを立てるものです。またそれがあってこそ、新年の意義があります。
人間が、他の動物などと異なる点を、動物学者たちがいろいろ論じていますが、「誓いを立てる」ということもその一つだと思います。牛や豚、鶏やカラスなどには、年の初めに誓いを立て、それを目標に日々の生活を送るようすは見られません。それらは、年頭に〈今年は自分の住居を、もっと住みやすくしよう〉とか〈今年こそ、自分の欠点を改めることができますように〉などとは誓わないことでしょう。
人間だから誓いを立てる。すると、誓いを立てないのは、やはり人間らしくないということです。また誓いがあってこそ、人間には進歩や前進があるのです。
まして仏法では、誓いを立てることを誓願(せいがん)を発(おこ)すと言って、これをとても大事にしています。いな、そもそも日蓮大聖人様は
「人生は自分の思い、一念、この強さ、深さによってすべてが大きく変わる」〔趣意御書1802〕と教えられています。
このような意味からも、年頭に寺院に参詣し、今年の決意や目標についてご祈念をすることは、人間としてきわめて大事な、重要なことであり、さらにご信徒としても仏法上、誠に立派なことです。
節分会 - せつぶんえ -
妙縁寺では、2月3日、午後7時から節分会を行ないます。
節分の「節」とは、竹などの節(ふし)のことで、それが転じて、時間や季節などのつなぎ目、変わり目を表現するようになりました。ですから本来は、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日を、みな「節分」と言うのです。このうち、立春の前日だけ、いつしか広く行事が行われるようになりました。
節分には、たいてい「豆まき」をします。誰もが〈自分の所に、ぜひ福を呼び込みたい〉と考え、現在では神社仏閣から各家庭に至るまで、声を張り上げながら「福は内」「鬼は外」と豆まきを行なっています。その際、なかには「福は内」「鬼も内」と言って行なうところもあります。
日蓮正宗では、「福は内」とだけ繰り返して豆まきをします。
節分は災難を払い、福を招くための行事ですが、留意すべきは「法華経にもとづいて行なう」ということです。これをまちがえると、額に汗して祈ろうが、豆をまこうが、福徳がそなわることもなければ、願いが叶うこともありません。そのことを、日蓮大聖人様は、
「さまざまな祈り方があるが、肝要なのは、法華経の信心にもとづくことである。そうすれば、現在と未来とに願う事柄のすべてが満たされるであろう」〔趣意 道妙禅門御書1041〕
と仰せられています。
〔厄年〕
節分会にあわせて、厄年のご祈念を願い出る方も多いようです。
一般的に、男性は25・42・61歳、女性は19・33・37歳を厄年としています。また、それぞれの厄年を「本厄(ほんやく)」「大厄(たいやく)」と称し、さらにその前年を前厄(まえやく)、その翌年を厄(あとやく)などと言って、前後3年間を忌み嫌う人もいます。
確かに昔は、厄年に当たる場合は結婚、妊娠等を避けたり、また「親の厄年に生まれた子は育たない」などと言い、産んだ子をいったん捨て、他人に拾ってもらうなどの行為もされていました。しかし現代では、人生の節目、また身体に変化が生ずる節目、と解釈されている場合がほとんどです。
したがって「厄年」は、いたずらに忌み嫌うものではなく、むしろ正しい信仰にいっそう励み、大きな福徳をさらに積んで、日々を一段と溌剌(はつらつ)としたものとする「好機」、と捉えるべきです。
どうしても気になる方は、ご信徒にかぎり、妙縁寺受付に申し出れば、住職・僧侶に祈念してもらうこともできます。
日蓮大聖人様は、
「三十三の厄は転じて三十三の幸いとなる。これを『七難即滅(しちなんそくめつ)・七福即生(しちふくそくしょう)』というのである。年は若くなり、福(さいわい)は重なっていく」〔趣意 四条金吾殿女房御返事757〕
と仰せられ、
「厄年の、災難を払う祕法は法華経につきる。実に、頼もしい。だから大厄については、この日蓮に任せなさい」〔趣意 太田左衛門尉御返事1224〕
とも教えられています。
興師会 - こうしえ -
妙縁寺では、本年、2月8日午後7時と、2月9日の午前10時から、興師会を行なっています。
日蓮大聖人様からのご相承を受け継ぎ、その法を堅固に護り、また正しく後世に伝えて下さった第2祖日興上人に対し、僧俗共ども心からご報恩申し上げ、いっそうの仏道精進をお誓い申し上げる法要です。
大聖人様は「仏法は、相伝によらなければ、知ることはできない」〔趣意 一代聖教大意 92〕と仰せられ、ご自身の入滅に先立ち、数多いお弟子のなかから、日興上人ただ一人を選んで仏法の一切を相伝されました。また実際に、大聖人様のご入滅後には、第2祖日興上人様が一宗の総貫首(そうかんず・一宗を統率する長)となり、また身延山久遠寺の別当(住職)にも就任されたのです。
ところがいつしか、地頭の波木井実長(はきりさねなが)が、大聖人様の教えに背く行為を犯すようにななりました。心を痛められた日興上人が、訓戒を重ねても、実長はまったく改めようとはしません。そこで、大聖人様の「地頭が謗法を犯すならば、日蓮の魂が住むことはない」とのご遺言と「富士山に本門の寺を建立しなさい」とのご遺命にもとづき、身延を去る決意をされたのです。
そして正応(しょうおう)2年(1289年)の春、大御本尊様をはじめとする数々の重宝を護持して身延の山を下(くだ)り、翌3年10月、大聖人様の仏法の根源地として富士の麓(ふもと)の景勝(けいしょう)地に大石寺(大坊)を創建されました。その後、法の一切を、第3祖日目上人に相伝された第2祖日興上人は、元弘3(正慶2、1333)年2月7日、富士の重須(現在の北山)において、安祥としてご入滅されました。御年88才でした。
今、私たちが大聖人の仏法を信じ、本物の幸せ、成仏の境界を得ることができるのは、ひとえに正法正義を守り抜き、総本山大石寺の礎(いしずえ)を築いた日興上人がおられたからです。
御誕生会 - おたんじょうえ -
妙縁寺では、2月16日の午前10時と午後7時に、御誕生会を行なっています。
御誕生会は、僧俗がそろって、日蓮大聖人様の末法ご出現をお祝い申し上げ、自身の仏道修行へのいっそう精進をお誓いする行事です。
インドの釈尊は、大集経(だいしっきょう)に「末法という時代には、闘いや争いが盛んになり、自身の説いた法の教えや力などの一切が失われてしまう」と告げられています。この末法とは、日本で言えば平安時代の末の、ちょうど藤原氏の権力が衰退し、新たに武士が台頭し始めたころです。
ともあれ、この仏教の「一大危機」とも言うべき時に、「釈尊よりも偉大な人格者が出現し、釈尊の教え・修行・功徳を越える大仏法、大白法を建立し、すべての衆生をことごとく救うであろう」とのご予言が、法華経〔趣意 法華経516〕に説かれています。そのことを、また法華経には、
「末法の世に、妙法が広宣流布する」〔趣意 同前539〕
とも示されています。しかも、その末法に妙法が広がることについては、中国の天台大師が、
「末法の時は、多くの人が妙法の功徳に浴すであろう」〔趣意 顕仏未来記675〕
と述べ、日本の伝教大師も、明確に、
「末法という時代が、いよいよ近づいてきた」〔趣意 顕仏未来記 同前〕
と、末法に憧れる言葉を残しています。
これらの経文や言葉どおりに出現されたのが、御本仏日蓮大聖人様です。
そのご誕生は、安房国片海(あわのくにかたうみ)の三国大夫(みくにのたいふ・
)(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母として、貞応元(1222)年の2月16日でした。そして建長五(1253)年の春、宗旨を建立され、以来、多くの法難を忍ばれつつ、すべての人に、
「南無妙法蓮華経と唱えれば、すべての罪障を消滅させ、あらゆる幸いを招くことができる」
〔趣意 聖愚問答抄406〕
とのお題目を唱えさせて、本物の幸せ、即身成仏を得させるために、そのご生涯をかけられたのです。
春季彼岸会・秋季彼岸会 - しゅんき、しゅうき・ひがんえ -
妙縁寺では、3月17日午後7時と20日の御前10時に「春季彼岸会(しゅんき・ひがんえ)」を
9月19日午後7時と22日の午前10時から「秋季彼岸会(しゅうき・ひがんえ)」を執り行います。
ある経典には「親に孝養(こうよう)を尽くすのは、すべての善い行ないのもととなる行為であり、父母が生きている間は孝養を第一とし、長生きするように身体(からだ)を養い、心を育(はぐく)んであげることです。亡くなったあとは、追って孝養を修すべきである」〔報恩経〕とあります。
そもそも、子が胎内(たいない)にいる間の、母親の辛さは言葉には尽くしがたいものがあります。しかも、お産が近づけば、腰が破れそうになり、あまりの激痛に息が止まりそうになるのです。やっと子が生まれても、子自身では何もできず、ただ泣いて、叫んで、親に助けを求めるばかりです。足はあっても立てず、手はあってもつかめず、目があっても見分けられず、耳があっても聞き分けられず。鼻があってもかぎ分けられない、まるで形だけのようなものです。それを親は、きめ細かに面倒をみ、丁寧(ていねい)に物事を教え、一人前の社会人に育て上げるのです。
ところが、その親が老(お)いると、子供から疎(うと)んじられ、蔑(ないがし)ろにされがちです。特に、自分が亡くなってからの供養もしてもらえないという、寂(さび)しさ、辛(つら)さは例えようもないものです。そのことを、日蓮大聖人様は、
「父母が地獄・餓鬼・畜生などに堕(お)ちて、苦しんでいるにもかかわらず、まったく供養をしないで、自分たちだけ着たい物を着、食べたいものを食べ、日常の楽しみに耽(ふけ)っている子に対して、亡き父母はどれほど羨(うらや)んだり、恨(うら)だりしていることであろう」 〔趣意 四条金吾殿御返事四七〇〕
と仰せられています。
ともあれ、先祖も、亡くなった父母や兄弟姉妹も、親戚も、大聖人様の妙法にもとづき、真心込めて、そして真剣に、追善供養することが大切です。大聖人様は、
「法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養をする時、題目の光が無間地獄に至り、そこにいる者もまちがいなく成仏することができる。たとえ地獄に堕(お)ちて苦しんでいたとしても、孝養の者が正しい仏法によって追善供養(ついぜんくよう)をするならば、やはり妙法の力によって成仏できるのであり、そのことに変わりはない」〔趣意 御義口伝一七二四〕
と仰せです。
大聖人様の妙法にもとづく供養こそ、亡くなった父母や先祖を成仏させ、みずからも孝養などの功徳を存分に受けて一家の絶対的な幸せを築くことにつながるのです。決して、亡くなった父母などから、羨(うらや)ましがられたり、恨(うら)まれたりしてはなりません。
やはり私たちは、お彼岸やお盆、命日など、折々に必ず、唯一の正法、南無妙法蓮華経による追善供養を心がけましょう
盂蘭盆会 - うらぼんえ -
妙縁寺では、
7月13日 午後7時
15日 午前10時
8月13日 午前7時
15日 午前10時
にそれぞれ盂蘭盆会を執り行います。
仏説盂蘭盆経(うらぼんぎょう)には、次のように説かれています。
釈尊の十大弟子のひとり目連(もくれん)が、仏道修行によって得た神通力によって、亡くなった母を探し求めると、母は餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちていました。生前に犯した罪により、鳥の毛をむしったような皮膚、丸石を並べたような胸の骨、鞠(まり)のような頭、糸のような喉、そして大海のようなお腹をして苦しんでいたのです。しかも手を合わせ、食べ物を乞うをする母の姿に、目連は思わず涙を流しました。
目連が急いで神通力で飯を送ると、母が口に入れようとした瞬間、炎となって燃え上がったのです。目連が慌てて水をかけると、今度は薪(たきぎ)となって、炎が母に襲いかかりました。〈自分の力で、救うことはできない〉と思った目連は、すぐに釈尊のもとへ走り、ことの次第を申し上げました。
すると釈尊は、次のように語ったのです。
『お前の母は罪深い。よってお前一人の力で救うことはできない。いや、たとえ諸天善神であっても、母を救えないであろう。どうしても救いたいのであれば、七月十五日に十方の聖僧(せいそう)を招き、百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)を供養しなさい。そうすれば、母の苦を救えるであろう』
こうして、目連は釈尊の教えどおりに法会(ほうえ)を行ない、母の青提女を餓鬼道の苦しみから救うことができました。
この盂蘭盆経にもとづいて、広く「お盆」の法要が行なわれるようになりました。
ここで留意すべきなのは、目連は自分の力で母を救おうとしましたが、それがかえって母を苦しめてしまったということです。言い換えると、仏様の正しい教えにもとづいた方法で供養しなければ、亡くなった方々を苦悩から救うことはできないということです。
釈尊は「あらゆる経典の中で法華経が第一である。法華経は諸経の王である」〔法華経五三五趣意〕と断言されています。また、日蓮大聖人様は「法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり」〔法蓮抄八一四〕と仰せられています。
これらのご文から、私たちや先祖が何によって真に救われるかは明白です。私たちは折々、この正しい法華経、妙法による供養を心がけてまいりましょう。
支部登山 - しぶとざん -
「登山」とは、総本山大石寺へ参詣することをいい、毎年、寺院に所属する講員信徒が御住職と共に総本山大石寺へ参詣します。
Tozan, (translated as "to climb the mountain"), is the pilgrimage to Taisekiji, the Head Temple of Nichiren Shoshu at Mt. Fuji in Japan.