篤姫

篤姫の入信
篤姫は、第13代将軍徳川家定の御台所(正室)で。江戸末期に薩摩藩の今和泉家に生まれ、薩摩藩主であった島津斉彬の養女、更に五摂家筆頭近衛家の養女として徳川家に嫁ぎました。家定の死後も自らの信念を貫き、江戸城無血開城に大きな役割を果たしました。
篤姫の入信は、、日英上人の認められた史料に、嘉永6年から安政3年まで(養父)島津斉彬の祈願により篤姫の婚姻成就の御祈念がなされており、婚姻が調うとその御供養を賜ったことが書かれています。
また日英上人は、島津斉彬へ御本尊を書写、授与し、斉彬の意向により入輿前に篤姫にも御本尊が下布されたことが記されています。
熱心な信徒であった小野島が、斉彬や篤姫の側で仕える中で、信仰について話しを言上されたことが推測され、篤姫は将軍家定の御台所になる以前に帰依(日蓮正宗を信じ、従うこと)したものと考えられます。
篤姫の信仰
篤姫は将軍に嫁いでから、わずか2年半で夫(家定)を亡くし、出家して天璋院となりました。
当時の世情は、江戸城の炎上や桜田門外の変など不安定な情勢でいたため、天璋院は万延元年に日英上人に世の安泰の御祈念を願います。日英上人は、1日12時間の唱題で「天下安全」の御祈念を51日間続けられたことが記されています。
また文久三年の、京都は尊皇攘夷派に掌握されていたため、身の安全を心配した天璋院は、日英上人に「御上洛御安全」の御祈念を願い出ています。そして家茂へ送った書状には、「きびしく信心のみ致し御帰城の所、祈り祈りまいらせ候。其の御池にても御一大事のことゆえ、御信心第一と存じまいらせ候」とあり、将軍家茂にしっかり信心するように勧められています。
江戸無血開城の実現
1867年、第15代将軍徳川慶喜により大政奉還が行われた後、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は大敗し、新政府軍はさらに、江戸総攻撃を計画します。
そのような中、天璋院は、最後まで江戸城に残り新政府軍首領の西郷隆盛に徳川家存続と江戸侵攻の中止を手紙で手紙は西郷隆盛の心を大きく動かし、その後の勝海舟との会談により江戸無血開城が実現します。
仮にこの時、江戸の町が焼き尽くされていたならば、現在の東京はなかった可能性があります。江戸の住民の命を守った歴史的な背景の一つに天璋院の存在があったこと、そしてその天璋院の心の支柱として大石寺日蓮正宗の信仰があったことがわかります。
小野島(小ノ島)
小野島とはどんな人物か
小野島は享和3年に江戸青山で生まれ、16歳で江戸薩摩藩邸へ奉公にあがりました。薩摩藩主であった島津斉彬に使えており、幕末には薩摩藩江戸藩邸の老女の中で最高位の「大年寄」にも任命されていた人物です。
天璋院(篤姫)が将軍徳川家定の正室として江戸城に入ったあとは、篤姫との連絡役なども務めていました。
小野島と妙縁寺の関係
妙縁寺の墓地へ向かう通路脇に立派な小野島の墓地があります。
墓石には、小野島が生前に金百両を奉納して墓石を建立したとあります。また小野島は父方の高野家永代供養墓も建立しており、その墓石に刻まれた法号の年代から天明年間には妙縁寺の檀家だったと思われます。
当時妙縁寺の住職を務めていた日英上人の自筆の過去帳に、小野島と両親の法号や寂年が記載されており、日英上人が小野島の両親の葬儀を執り行ったものと考えられます。
そして小野島の法号(「永壽院殿宗達妙悟日撰大姉」)や両親の法号からもからも代々日蓮正宗の熱心な信徒であったことが考えられます。