信仰は、人生に必要ですか?


 一般的に信仰とは、お年寄りが、自身の精神修養や先祖の供養のため、あるいはなごやかな楽しみの場を 求め、お寺へ参詣し、時には団体旅行をすること、などの認識しか持ち合わせていない人が多いようです。 あるいはまた、困った時に神仏の加護を求めて参詣し、手を合わせ、願をかけたり、守り札などを大事にす る、それが信仰だと思っている人もいます。


 しかし、正しい宗教を信仰する目的は、一人ひとりが、現在と未来にわたって苦しみを離れ、人生の本物 の楽しみを得るためです。


 釈尊しゃくそんの教えを端的(たんてき)に示す、基本的な語句に「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉があ ります。世の中のすべてが、みな苦痛・苦悩である、ということです。また法華経には、 「世の中には、人が心から安らぐ場所はない。まるで、いつも火に取り囲まれているようなものであ る。多くの苦悩が充満していて、実に恐ろしいところに住んでいるのである」〔趣意法華経168〕 と説かれています。


 実際、今日の社会にあっても、想像を絶する災害、目を覆いたくなるような悲惨な事件、原因のわからな い多くの病気など、人々の胸中にはさまざまな不安と混乱が渦巻いています。この中を生き抜いていくのは、誰にとっても容易ではありません。日蓮大聖人様の、 「すこし健(けなげ)の者も独りなれば悪しきみち(道)にはたう(倒)れぬ」〔三三蔵祈雨事873〕とのお言葉どおり、たとえ少しぐらい丈夫であっても、勇ましさがあっても、自分一人の力でどうにかなるというものではありません。


 とは言っても、心配はありません。南無妙法蓮華経の信仰で、必ず、すべてを乗り越えることができます。
 根本的な部分から解決することができます。それは、すでに大聖人様が、
「たとえ太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経を修行する者の祈りが叶わないことはない」〔趣意630〕
「妙法蓮華経の功徳によって、毒を変じて薬となし、悪を変じて善とすることができる」〔趣意1492〕
とご断言されています。


 まただからこそ、大聖人様が、
 「日蓮をつえ(杖)はしら(柱)ともたのみ給ふべし」〔弥源太殿御返事722〕とも仰せられているのです。


 正しい信仰生活を送ることによって、私たちはあらゆる苦悩や問題と真正面から取り組み、敢然(かんぜん)と立ち向かうならば、その一つ一つを幸いな事柄へ、しあわせ幸福な出来事へと転じることができます。


 もちろん、そのためには南無妙法蓮華経の信心をする、またそれを貫いていく、このことがきわめて重要です。